首都ニューデリーを東に囲うインド北部の農業地帯、ハリヤナ州は多数のレスリング選手、特に女子選手を輩出していることで知られる。
イギリスから独立して76年、インドがオリンピックの個人種目で獲得したメダルは21個。うち6個がハリヤナ州出身のレスリング選手によるものだ。パリオリンピックに出場する女子レスリング選手のインド代表は5名、その全員がハリヤナ州出身である。
そのハリヤナ州の女子選手を長年に渡り支配してきたのが、元インドレスリング連盟会長の Brij Bhushan Singh という人物である。氏は2012年に会長職に就いて以来、女子レスリング選手を性的に搾取してきた。一連の事件をめぐって昨年初頭から現役選手らによる大規模な抗議活動が行われ、路上で警察と衝突する様子などが国内外のメディアで報じられている。デリー州裁判所は今年5月に Singh 元会長の裁判を行う決定を下し、現在5人の女子レスリング選手に対する性的搾取容疑で裁判が進んでいる。
Singh 元会長は、これまでに武装強盗、誘拐、暴動、殺人など30件以上の事件を犯している。1996年にはムンバイで250名以上の死者を出したテロ事件の首謀者を匿ったとして投獄されているほか、2年前に地元ウェブメディアのインタビューを受けた際に人を銃殺した時のことを詳細に語っている。しかし、いずれの事件においても証拠不十分などの理由で有罪にはなっていない。
同氏は1990年代にインド人民党(BJP, Bharatiya Janata Party)のヒンドゥー至上主義運動に参加して以来、政治にも深い繋がりを持ってきた。インド議会で最多議席数を持つ地元ウッタル・プラデーシュ州で6期に渡り議員を勤めたほか、今年行われた総選挙では自分の代わりに息子を出馬させるなどして同地域での影響力を保っている。
2012年に Singh 元会長がインドレスリング連盟の会長に就任して、まず行ったのは、女子選手の合宿地をハリヤナ州からウッタル・プラデーシュ州に移すことだった。同州には Singh 元会長の別荘があり、そこで女子選手が性的に搾取されたと報じられている。犯行には連盟メンバーと年長の女子レスリング選手が協力していた。経済力のない家庭の訓練生を狙って、特別待遇を約束するか、体型や怪我などを理由に訓練から外すなどして、 彼女たちを Singh 元会長の別荘へ送り込むというのが手口だった。女子レスリングの最年少部門は15歳以下、中には13歳の訓練生もいたとされる。
インドのレスリング選手は州代表以上のレベルになると、指定の合宿所で数ヶ月間の訓練を行わなければならない。合宿所を退所したり、連盟によって出場停止となったりした選手は、国内外の大会に出場することができなくなる。
ハリヤナ州はインドで最も男女比が低く、女性に対する犯罪が最も多い地域のひとつである。女児は一家の経済的負担とみなされ、性別がわかった時点で堕胎するか、生まれてきた子供に差別的な名前をつけるなどの習慣もある。また、男性と自由恋愛した女性を家族が殺害する名誉殺人も未だなくなっていない。
「レスリング選手の8割が貧困層だ。裕福な家の子は、こんな拷問のようなことはしない」
レスリング選手の娘を持つ親は言う。
「まずは安定した仕事を得ること。地位や名誉のために闘うのはそれからだ」
優秀なスポーツ選手には、政府、鉄道、軍などから仕事を得ることができる。成績が良ければ良いほど、仕事の質と給与の額は高くなる。
Singh 元会長はインドレスリング連盟を辞任したが、インド人民党との協力な繋がりを使って親族や腹心を連盟の重役に就任させた。連盟の新会長は Singh 元会長を兄貴と慕う人物である。彼は就任当日、15歳以下と20歳以下のレスリング国際大会を Singh 元会長の地元、ウッタル・プラデーシュ州ゴンダで開催することを発表した。それから間も無く、女子レスリングの Sakhi Malik 選手が緊急記者会見を開き、泣きながらレスリングを引退すると発表した。Malik 選手は2016年にブラジルで開催されたオリンピックでインド人女性初のメダリストとなった英雄である。
「(会見を見て)国民が感じたのは、国内のトップ選手がこのような扱いを受け、正義を勝ち取ることができないということ。オリンピックでメダルを取った女性ですらこのような状況になるなら、自分の娘が搾取されたらどんな目に遭うことか。親が闘う相手は誰か。一番良いのは、娘にレスリングをやめさせることだ」(前述の父親)
ハリヤナ州でレスリングの練習場に入る女子は以前の半数ほどに減ったという。それでも、多くのものを背負って、女子選手は闘い続けている。